昭和40年07月10日 朝の御理解



 小倉の初代桂先生が、御本部の御広前御造営の発案をなさった。一心発起そのことを神様にお願いをなさった。どうとか、この思いを遂げさせて頂きたいと言うて、大発願をなさった。この時の祈願文の一説に、例え空飛ぶ鳥でも翼無しには飛ばれませんと。どんなに例え願いを持ちましても、どんな大きな願いを持ちましても、やはり鳥に翼がなからなければ思うところに飛んでいけませんように、どうぞ、私にその翼を与えて下さい、という意味のことを祈願文に書いておられますですね。
 その一念がです、ね、私強ければ強いほど、そのおかげが、成就していく。ね、神様にお願いをしてあるから、神様がおかげを下さったならば、そのことをおかげを頂こうといったような弱いものではない。どうでも、こうでもと、切実さというか、切実な願いというものがなされなければいけない。歌の文句にもございますようにですね、飛んで行きたいあの屋の屋根に、例え木の実、萱の実食べてでも、ね。
 あの屋の屋根、その飛んで行きたいっち、鳥になりたいっち、それは木の実萱の実食べてでも、そうして、こがれて泣く声聞いたら、よもや嫌とはいわるまいというような歌の文句がある。飛んで行きたいということだけは誰でも思うておる。ね、こがれては泣いておっても、木の実、萱の実食べてからでもと言う、それがなかなければ駄目だと私は思う。自分の食べんでもと、自分の着らんでもと。ね、
 食べ放題のことを食べよる、着放題のことは着る。ね、そして余ったならばといったようなものでは、おかげにならんと私思う。ね、私どもは一念を発起するならば、そのくらいのものはなからなければいけない。その、その思いがです、私は、よもやいやとは言われまいと、いうようなおかげになってくると。この一念を神様に打ち向けたらです、神様もよもや、それを聞いて下さらんことはないと。
 私共の願いというものがです、切実さというものが欠けてはおかげになりません。ね、色々願いはかけてとる、思いは思うておった。ところが、途中から段々それが挫折してきた、崩れてきた、弱いものになってきた。始めの間はさほどにも思わなかったけれども、段々そのことに本気で成就させて頂こうという気持ちにならせて頂いたら、そういう、弱いものになっていくのではなく、挫折するのではなくて、そういうことに出会えば出会うほど、その思いが強くなっていくと。
 ここんところに、私は信心の進む人、進まない人、徳を受ける人、受けられない人があると思う。ね、障害があるたんびに弱くなっていく、挫折していく人、障害があるたんびに、強くなっていく人。ですからそのこと事態、例えば私共が一つの願いというものをかける、その願いそのもの、ことを通してです、本気で信心を分からせて頂きたいと、また、分からせて頂くところの楽しみと喜びというものを頂かせてもらう、信心にならなければいけんと思う。
 皆さん、皆さんが今本当にここに翼があったならばと、思われる方が沢山おると思う、現在の椛目に。ね、ここに翼があったならば、思うところに飛んで行きたいと、念願を持っておられるかたがあろうけどもです、木の実萱の実を食べてからでもっという人は少ないと思う。ね、誰がなんと言うてもと、それがないと、誰が何とか言うたら、もう挫折する、誰が何とか言うたらもうぐらつく。そうじゃないでしょうか。
 何か障害があったら、もうそれで思いが弱なるとそんな事では、神様一念は届かんね、神様に一念が届くという自分の思いが通うということ。ね、その事が高度なものであればあるほど、お互いの信心に高度な信心が身に付いて来るとこう、ね、小さい私ごと、小さい私一家の事というのではなくてです、ね、こと願いが本当に神様の祈願に答えると。昨日、長男がちょっと帰って参りまして、長男に話ました事です。ね、
 確かに椛目の御広前というのは、人が人間が作ったものじゃない。おのずと開けるべくして開けて来る、来たのだと。神様の思いがここ椛目にあらわれてきだしたのだと。ね、そこのところを思うたら、これからの椛目どこまで発展のおかげを頂いていくか、どこまで難儀の氏子の取次、助ける事の場になってくるか分からない。思うだけでも心がはずむ様な思いがする。
 神様の理想が実現することのために、椛目は生まれたのだと。そこの例えば二代を継がせて頂くんだと、例えばその自分の理想が高いところに、おかれてあるだけでは駄目だと。そういう神様の願いがある、椛目であるから、ね、いよいよ大変な人が助かっていくようになるだろう、大変なお広前に段々、繁盛、発展のおかげを頂くだろうと、そこの例えば二代を継がせて頂くんだと。
 だから高度のところに、いよいよ思いをおかなければならないけれどもです、その高度のところに思いを置くというのは、上の方を見るのではなくてから、自分自身の足元を本気で見極めて行くことだと私は思う。そのことのために、現在御本部で、一年間の教師修行をさしてもらい、もうやんがて一年半になる親教会の信心修行をさせて頂いておるのだと。いうならば自分というものを本当に空しゅうする。ね、
 高い所へ神の理想実現のためにお使いまわし頂くためには、自分も一緒に高い所に思いをおいとっただけじゃ、つまらん。そういう御用に使こうて頂きたいと思えば思うほど、自分自身の足元を、本気で見極めることだと。自分というものが空しゅうなる時に、辛いもなからなければ、寂しいもない。腹たつということは、なおさらない。自分が空しゅう。腹立った寂しかったする時には、自分がまだこんなに沢山あるんだ。、
 と分からしてもらえる。自分があるから腹が立ったと。自分があるから苦しいのだと。まず、自分を空しゅうする、そこから、信心をさせてもろうて、そこから、神様が自由自在にお使い回しを下さるところのおかげを頂かなければならんのとぞと。というふうに、私なるほど高いところへ、そんな私が申しましたように、神様自体、椛目自体違うと。神様が開きなさったんだぞ。
 だからこのままいったらどこまで、開けていくや、どこまで難儀な氏子が助かっていくやら分からない。そこのお広前を中心としてです、いわば二代を継がせて頂くということのために、勉強してもどういう勉強をしておるのか。ただ、(こうゆうことを?)こう眺めておるだけではつまらん。自分自身の足元を本気で、見極めさせてもらわなければならんと。ね。そういう例えばお互いがです、信心をです。
 そういう所に御神縁を頂いてから、信心の稽古をさせて頂いておるのであるから、その様な事が成就していく事の為にです、ね、一念発起しなければいけないということなのです。そういうねそういう大きな神様の願いのことのために、私共の願いを持っていかなければ駄目だと。ね。しかもその願いがです、ああ翼が欲しい、翼が欲しい。
 (  ?  )翼があって、どこまで飛んでいけるのかという、その、思いだけではな。て、そのためにはです、木の実、萱の実食べてでも、というような切実さというものがあって初めてことが成就するのであり、ことが成就するときに、またことが成就するということは、神の願いが成就するときにです、私共の願いも信心も、成就していくところのおかげになっていくと、こう思うのです。
 ただ大義名分が立つというだけではいけ、立っておるという願いが、大義名分のという、ことであるだけではいけない。それには切実さがいる。ね、ちょっと障害があればもうぐらつく。もうこれは駄目。ね、そういう障害があればあるほど、その一念が強なっていくというような思い。ね、
 そこに私は、翼が欲しいと、飛んで行きたいあの屋の屋根にと、というだけではなくて、そのためになら、例え木の実、萱の実食べてでもと、いとわんというような思いがあって初めてです、そのこがれて鳴く思いを聞いて、聞いたならば、相手の人にでも通じるであろうのにです、そういう願いを持って始めて神様に、お聞き届け頂けるおかげを受けられると、いうふうに思いますですね。
   おかげいただかれました。